
(上記表題より続く)働いて参ります。」某女性総理(発言時点では総裁)のこの言葉は2025年の新語・流行語大賞年間大賞に選ばれました。発言の直後には、日本人の働き過ぎを問題視する立場や過労死遺族などから早速批判の声が相次ぎました。また、このフレーズの前置きとして「ワーク・ライフ・バランスを捨てます」とも語っており、国の政策の方向性との不整合も指摘されました。自らの国会答弁の勉強のため官僚を深夜まで拘束するなど、とんだとばっちりもあったんだとか。しかしながら勤労を美徳とする日本的価値観からすると、これは賞賛に値するとの声も強いようです。自らの生活を投げ打って仕事に没頭することには、依然として一定の評価が下されるのかもしれません。
この点に関して経済学的立場から見ると、「労働は不効用」との理解が浮かび上がってきます。経済学において、労働とは効用にマイナスの影響を及ぼす要素なのです。ここで「効用」とは、自分の好きな商品やサービスを最大限享受したいという欲求とその実現とも言えるでしょう。更に経済学では、余暇(自由な時間)が労働に対置され、それは多ければ多いほど効用は高まる、とも説明されます。極論すれば、365日遊んで暮らせることが効用の最大化だ、という理屈です。しかし人間そうはいかないので、泣く泣く自分の時間を削って所得を得、消費のための原資を得る必要がある。これこそが労働であり、すなわち労働とは人にとっての「不効用」という理解に至ります。またキリスト教の世界では、労働は神から与えられた「罰(苦役)」として位置づけられているんだとか。某女性総理の発言が「受けた」のも、本来不効用である筈の労働を率先垂範励行します・・・と大見得を切ったのが良かったのかもしれませんね。
さてしかし、労働とは本当に不効用一辺倒の要素なのでしょうか?苦役に耐えることのみが労働の本質なのでしょうか?
少し違う。労働には不効用という面と同時に、「効用」としての要素も大いにあるのではないか。私はそう思っています。そして更にこの効用と不効用は、単純な要素の合算ではなく、いわば量子力学の世界における「量子もつれ」よろしく、一体のものとして表と裏が複雑に絡み合っており、かつ同時に成立する・・・そんなイメージを私は持っています。何かを我慢した先に幸福があるのではなく、労働の一側面たる人間関係の新陳代謝そのものの中に効用が潜んでいる。そんな感覚を私は持っています。
実際、仕事って面倒臭いことだらけの代物なんですが、ある種どうかすると「面白くて、面白くて、面白くて、面白くて・・・面白い」面があるのも事実(実感)です。またそれを仲間と共有できると効用は加速します。出来ることなら人生、楽しんで働けると良いですね。(でもやっぱりくれぐれも働き過ぎは禁物ですよ。念のため。)
